歩く


この一ヶ月、忘れられないことがある。


友達が


「もしかしたら、歩けなくなるかもしれない」


といったことだ。


夏の最初に痛めた手首が痛むたびにあの言葉がズキリとくる。
体というのはけがをしてみてはじめて気がつく。
ちょっと手を動かすのにこんなにいろいろな神経を使っているのだ、と。


でも歩けなくなるなんて。
10年前に手術した足が急にまた悪くなってきたらしい。
子供の頃からの奇形で、その手術を受けるのだって人生をかけた決心だったのに。なんで。
もう、いいじゃないか。神様。


この世界は歩けない人にとってはものすごく不便だ。
私が毎日通っている事務所と家の往復ですら、もし歩けなかったら
1人では不可能だ。エレベーターのないアパートの5階から降りられない。
建物を出てからバス停までいくのだって、なんども歩道の段がある。
バスに乗って、バス停でおりて、地下鉄の駅のエレベーターがある
ところまでいかなくてはならない。それだってものすごく遠い。
大きな交差点をクロスしなくてはならない。
地下鉄にのって、事務所の駅で降りて、エレベーターであがって
またバスに乗って、おりて、横断歩道を3回もわたって、やっとの思いで
事務所の入り口についたって、エレベーターのところまで10段くらい
階段がある。立ちはだかる難関。それは絶対に車いすだったら上れない。


建築にとって階段こそはその空間演出装置としての第一の座を譲らない
くらい重要だけれど、もしも歩けなかったら悪魔の装置だ。


今日もまた事務所の階段を下りながら、このことを考えると手首と心がずきずきしてきた。
今、私は彼女に対しては言葉を失う以外に何もできないけれど、
少しだけでも誰かに優しい建築を設計することはできるのだ、と思う。