帰るところ/心の風景


最近、自分の帰るところ、のことを考える。
日本の実家が本当に自分の帰るところ、でなくなりつつある。
もちろんその家は生まれてから大学院で下宿するまでずっと住んでいた家だ。
でも、妹がもしも結婚して、母がいなくなったりしたら、あの家だってなくなるだろう。
そうしたら私の「帰るところ」が日本からなくなる。
母の実家というのはあるが、父の実家はもうとっくにないし、母と離婚して出て行った父の
家など私と何の関係もない。


2年前に10年ぶりに会ったある友人は、中学校のとき家族で日本を出てアメリカに行ってしまい
その後帰ってこない。彼女がいうには日本はもう彼女の帰るところではないそうで、その話は
とても印象的で、最近そのことが何となく自分にも実感としてのしかかってくるのだ。


今日ある日本のドラマを見ていたら「故郷」という言葉がでてきた。
帰るところがあるということがありがたい、という台詞に
妙にリアリティがあった。そんなことを考えたこともなかったのだけれど、
なんだか実家という場所が永遠の場所ではないのだ、と思ったら
急にそのことが頭から離れない。
それは両親との離別も意味しているが、もっとリアルなのは場所の話だ。
あの家。東京郊外のいわゆる高度成長期に建てられた住宅地の中の家だ。
なくなっても私と妹の心に穴があく以外何も変わらず、きっとその後には、
最近の安普請のお菓子箱みたいな家が建つだろう。


では、今住んでいる場所が私の帰る場所になるのか?


答えは今のところNOだろう。
友達に話したら、その友人はYESだと言った。
日本は彼女にとってすでに帰るところではない、と。ここで生きて行くのだ、と。


居場所を見つけることは生活や人生にとって大切なことだ。
ここは私が人生で得た何番目かの居心地のとてもいい居場所だ。


でも、ある場所に安住してしまうことは怖い。そこから出られなくなってしまいそうな気がするのだ。
もっと新しい場所を探す勇気をも持っていたいのだ。
そんなのは若いときだけで、とも思うけれど、でも身軽でいたいとも思う。
そして、いつか心の故郷に帰りたいのだ。


この街に住み始めて6年以上もたった。
どんなにここが好きでもここは私の帰る場所にはならない気がする。
海もないし、夏に蝉も鳴かない。私の心の風景は常にあの夏休みの両親の実家だ。
住んでいた訳でもないのに、あの海のにおいがする街を思い出す。生まれ育った
実家のある東京郊外のあの街に住むことは実はもうないのではないか、とも思うが
この私の心の風景とあまりに違うこの街はいつまでたっても外国だ。


ドイツの外国人局で日本人に対してはビザがおりやすいという話がある。
なぜなら日本人は必ずいつか帰るから、だそうだ。
他の地に骨を埋めようと思わない民族なのだ。
中国人なんて大変だ。一回来たらきっと帰らないから。
日本という島は不思議な島だ。


こんな湿っぽいことを考えてしまうのは、どうも3日前に前述の友人と
私たち20年後もここでお茶飲んでるんじゃない?
という会話のせいだ。
もうすぐドイツ人と結婚する友達と、もう子供がいて帰る予定のないその友人と
皆、それぞれ心の中の風景は違っていたのだろうけれど。