進化しすぎた脳


記憶力増強計画の一環で読んだ「進化しすぎた脳」の読書メモ。
対話形式なので目の眩むようなグルーブ感と後書きに池谷先生は書いているのだが、はっきりいって前作より断然読みにくかった。生徒達が私が疑問に思うことを質問してくれないので、なんだか話が頭の中で途切れてしまうのだ。グルタミン酸の化学式はみんな知ってるよね?って中高生に向かってさらっと素通りしているのだけれど、えええ?それ、普通知りません!ああ、こうやって立ち止まっていたから授業中よく置いて行かれていたのだろうか、私。(今調べてみた。C5H9NO4だ。こんなの高校の有機で習うのだっけ?)


さて、この本は脳がどうやって物事を「記憶」していくか、という話以前の脳の仕組みの話だ。どうやって、そして脳のどこに、インプットされた情報が伝わって処理されるのか、ということ。それと、「意識」とは何かという、ともすれば形而上学的な話が、脳という組織にとっては何なのか、という話。


一番ぐっと来た話は、ある刺激に対して脳のどの部分が活性化し、どのような反応をするのかを詳しく調べて行けば、近い将来ある臓器(例えば手)を失っても人工の義手などを脳の反応で動かせるようになる、という実験。これはすでに人体実験がはじまっているというのだ。いつの日か甲殻機動隊なみに!とはいかなくても体の一部を義体化できる可能性がある、ということだ。こういう科学の夢話はいつ聞いてもワクワクしてしまう。


次に面白かったのは、目が見ている画像と脳が処理している画像の話。実は人間の目から入ってくる光学的情報は脳で処理される情報の3%にすぎないらしい。あとの97%は脳が経験などを駆使して勝手に組み立てているらしい。となると、子供の頃に誰もが疑問に思う(少なくとも私はこれが不安で眠れなくなったりしていたのでとても気になる。)「本当に自分に見えている世界と他人が見ているが同じなのか?」という命題の答えは脳的に言えば「同じではない!」ということになるらしい。だって、私の脳が勝手につくって私に見せているのだから。しかしこの脳の勝手につくる(補う)機能がないと、次々に入ってくる情報を処理しきれないらしいのだ。


さて、インプット(情報)を脳は専門化したそれぞれの部分で対応していくということがいろいろな実験から検証されてきて、その対応関係は少しずつ解明されてきている。という話がこの本の大枠の話で、そこから、では脳はどうやってアウトプットするか、という話のところで例えば一番プリミティブな意志行動じゃんけん。グーチョキパーのどれを出すかは意志で決めていると思いがちだが、意外や意外、脳のそのときの揺らぎが行動を決定している、ということがあるらしい。(イエスノークイズみたいなもので、脳波を調べると問題の難易度にかかわらず、答える2秒前の脳波の状態で答えが決まっているという実験をした人がいるそう。)この辺はまだ実験途中の新しい話。


悲しいという感情と涙が出るという行動も「悲しいから涙が出る」という流れではないらしい。脳がある刺激(インプット)に対して過去の様々な経験を組み合わせて、「涙」を出すという命令と「悲しい」という感情を感じる命令を出す,ということらしいのだ。「心」があって、それが形となって現れる訳ではないのかもしれない・・・。情緒的な感情から言えば、この辺はどんどん解明されてほしくはないような気もする。脳科学者の究極の夢は脳の神経活動をすべて記述し尽くして感情というものを明らかにすることらしいけれど、そうなったらそれはそれでどんな世界が見えてしまうのか?


言語と脳の話では、「言語」も大部分が脳の「無意識」活動である可能性が高い、という話があって、それは納得できる気がした。私は言葉をいちいち「意識」的に選択していない。かなり反射的に反応して口から出ている気がする。ただ、反射的に口から出るようになるためには「外国語」をどうやって勉強したらよいのか、さらには「外国語」を自分の思考方法にまで影響を与える程深く勉強したいという野望はかなうのか?その辺はその手の専門書をひもとくしか無いか。


ああ、これはこれとして「記憶力」の正しい鍛え方は21世紀初頭の2008年現在では、古今東西文明発祥以来人間が繰り返してきた黄金の方法「まじめに勉強して復習する」しかないってことなのかなあ?もう1月も終わりだしそろそろ重い腰を上げて勉強はじめなくてはなー。やれやれ。