屋根のうえで。そして川のむこうに。

現場で上棟式があった。1年以上前に設計した家の工事がだいぶ遅れてはじまったので、やっとその日を迎えることができた。ひとつのプロジェクトを進めていく、ということはただ机上で図面をひくことではなく、ものすごくたくさんの人との協同作業だ。家/建物を建てたいひともその仕事を請け負うひともそういうことのすべてをちゃんと管理/マネージメントできる人間でなくてはならない訳で、いつか自分もこのイベントの一部でなく、それを責任もって請け負う立場になれるのか。と春の強い日差しのなか、ビールでいろんな職人さんたちと乾杯しながら考えていた。いまはまだ守られた存在にすぎない訳で。


昼間からビールの飲み過ぎで,夕方早々ダウンして寝てしまった。おかげで夜中に目が覚めたので「黄色い雨」の続きを読了。ラテンの国といってもスペインという国の人たちにはそのものすごく強い日差しと明るさの裏に,とてつもない孤独感がある。前に私の生まれてはじめてのゲイの友達であったスペイン人が言っていた。「スペインはとても貧しい国なんだ。」と。貧しい、という言葉を彼が使ったのは多分,当時まだお互いなれないドイツ語で話したからなのだろうけれど、でもあの言葉がスペインという国のことを考えるときいつもどこかに思い浮かぶ。多分,スペイン料理の素朴さの話をしていたときだったと思う。その飾らない日常の話をしていたときの話。


スペインの現代建築は時にとても冷たい。スイス人のミニマリズムとは違うのだ。スイスははっきりいってヨーロッパいちお金持ちの国だ。貧しい、なんて絶対言わない。あのミニマリズム建築を成立させる為にかかる建設費はものすごい。(そういうものを施主が負担できなくては成立しない。)スペインにそういう社会的背景はないはずだ。だけれど、あの白い、妥協を許さない透徹した意志はなんなのだろう?と時々思っていたけれど、この小説を読んでいたら、すこし彼らに通じる所があると思った。


この小説はある貧しい村の最後を見届ける老人の最後を書いたものだ。最初に読みながら思い浮かんでいたシーンはナウシカの始まりの、また一つ村が死んだ、という台詞だった。自分一人しか世界にいない。映画"I Am Legend"のように劇的でも英雄的でもなく、ただ静かに自分の村の最後と対峙する老人の独白。こういう小説が現代のスペインでどのように受け取られているのかが気になる。(それは訳者の後書きを読めば少しは伝わってくるけれど。)世界中でこういう過疎の問題は存在する。そこから見るとこの小説は少し美しすぎるような気はする。それでも、ココロに残る残像があとからじわりと効いてくるのかもしれない。

黄色い雨

黄色い雨