The namesake by Jhumpa Rahiri

夏から読みかけになっていたpaperbackを週末にやっと読み終えた。
彼女の第一作「停電の夜に」はとても好きだった(これは短編集)ので
期待していた。でも初の長編、とあってどうも途中が冗長で
あきてしまい、やめになっていた。


結論を言うと最後は不覚にも涙がほろり、と来てしまった。


この人はインド系アメリカ人の2世で、この作品のメインのテーマは
人の名前と人生、なのだけれど、通底するのは異邦人がアメリカ/外国の地で
生きることだ。それは前作も同じ。前作はアメリカやインドが舞台の様々な
短編の組み合わせで個々の話が少しずつ互いに呼応し、異文化に異邦人として
生きることの意味が伝わってくるという構成自体が秀逸な作品集だったのだけれど、
今回はストレートだ。


夫の仕事(大学で教えること)でインドからやってきたインド人夫婦。
前半はその夫婦、とくに英語の話せない奥さんがアメリカ社会に生きる様
が語られていく。2人の子供たちができる。


後半はその2世としての子供たちがアメリカ社会に生きて行くことがどういう
ことかが語られていく。


このテーマは今の自分にとってはとても興味深い。そして、とても哀しい。
だから1作目の作品に惹かれたし、今回もまた結局ぐっときてしまった。
自分ももしかしたら、この異邦の地で子供を育てるかもしれない,と思うと。
そして、この本が教えることは、異邦の地で育った子供たちにとって親の故郷は
故郷でない、ということ。異邦人であってもアメリカ人なのだ。


彼らの葛藤は自分たちが完全なアメリカ人ではないところに生じる。
アメリカ社会に憧れる。自分たちは親のように(自分の故郷/アイデンティティ
がどこか別のところにある生き方。決してアメリカ社会にとけ込まず、小さなコミュニティ
の中で生きて行く。)ならない、と決意しながら、結局、完全なアメリカ人でない自分から
最後は逃走できない。最後に、主人公のゴーゴリが自分と同じように育ってきたインド人の
女の子と結婚する。悲劇はまだつづく。そこにも結局彼の安住の地はなかった・・・。


きっとラヒリ自身もまだ答えがないのかもしれない。


途中、ちょっとうんざりするのは、ひたすらアメリカ社会の知的エリート階層の
話ばかりでてくるからだ。主人公が恋する女の子たちはみなアイビーリーグ出身のエリートか
アーティストやジャーナリストといった職業の人たちばかり。その親またしかり。
彼女は結局そういう階層の人間しか認めていないのだろうか?
そこに異邦人の哀しさがある。ある外国社会で認められるためにはその社会が認めている階層に
自分たちが入らなくてはならない。よくわかる。


Ph.Dがないと、話がはじまらないような風潮はこの国(ドイツ)にもアメリカほど(?)
ではないが、ある。


すごく気持ち悪い。


そして、単なる偶然の一致だが主人公ゴーゴリも私も同じ職業で、この職業にはPh.D
全く必要ない。アカデミーの世界にいたら仕事ができるようにならない。人と人、現場を
まとめて行く能力こそ必要で、机上の理論ではやっていけない。だから、ゴーゴリが感じる
そういう世界のうっとおしさまでおまけで共感できてしまった。



外国に生きて行くことの哀しさは、言葉(外国語/母国語)だけではない。
自分のアイデンティティが強烈に問われる。
私にその覚悟があるか?


まだ分からない。
だから、この話の最後はあまりに自分にとって深く心に突き刺さる結末だった。
いろいろなことを考えて涙がでてしまった。
日本の家族のこと。愛する人のこと。まだ見ぬ自分がこれからつくる家族のこと。