文字をつくった人


帰途の飛行機の中で宮城谷昌光の「沈黙の王」という短編集を読み終えた。
これは甲骨文字を作ったといわれる商の国の高宗武丁と後に呼ばれる王の物語。


音は聞こえるがうまく話すことのできない王子がいた。その王子は王権を継ぐことが
できず、父王から国を追放される。話すことができない王では国を守ることができない、と
考えられたのだ。話せるようになったら戻ってもよいという父の言葉を胸に、王子は
長い放浪の旅に出る。


言葉を探す旅。


王子は旅の途中で様々な学問を身につけ、そして祖先の霊からある村へ行けとのお告げを受ける。
そこで、王子は自分の心を読み取って言葉にしてくれる人に出会う。その人とともに国へ帰った
王子は王権を継ぎ、「目にもみえることば」を作った。それが、文字の発祥となったという。


少々ロマンチックすぎる話のような気はするが、それはさておき、「文字」というものをはじめに
考えた人の話だ。口で話している言葉を形に表すというアイディアがまったくない時代に、
文字というものがどういうものであったらよいかを発想をすること自体、奇想天外であった
だろう。電話やテレビやカメラや車や・・・何にでもはじめてそれを考えた人がいるように。


私は今たとえ世界言語である英語の習得に苦しんでいるとしても、それは別次元の問題で、
漢字文化圏で教育を受けたことをこの上ない宝だと思う。何せ、漢字は成人してから学ぶには
あまりに大変だ。子供のころ6年かかって毎日せっせと漢字の書き取り練習をさせられたからこそ
今でもなんとか1000字くらいは書くことができて3000字くらいは読むこともできるのだろう。
アルファベットなんてたったの31文字だ。


漢字文化は合理性とはかけはなれた世界かもしれないが、その文化の重層性、複雑性は比較にならない。
もちろんアルファベットの言語にはまた別の特徴がある。音だ。ヨーロッパの言語は、発音それ自体が
力を持っている。ドイツではいまでも盛んに本の朗読会というのがある。目で読むよりも耳で聞く方が
力があるのだ。教会のミサもそうだ。多分、聖書は読む物ではなく、神父の語り(←これは
実は歌になっている。)がすごいのだ。ローマ法王のお説教なんて、ドイツ語はよくわからなくても
聞いているだけで感動してしまった。だから、レトリックというような「話し言葉」の表現方法が
発達したのだと思う。オペラもそうだ。言葉を音楽にのせて語るのだ。意味内容より、発された音の
響きが重要なのだ。


漢字文化、すくなくとも日本語は音に力がある言葉では無いと思う。帰国中、野田秀樹
舞台を見た。彼のめくるめく言葉の遊戯の世界はすばらしかったけれど、やはり「音」には力がない。
そこまで要求するのは役者の力量を越えてしまうのかもしれないけれど、頭で内容を追っていく時、
それは脳の感じる快感なのだ。何重にも仕掛けられた言葉の編み目がつながったとき、それを
キャッチしていく快感はあるが、どうも単純に体が感じる快感ではないな、と今まで考えたこともない
ような感想を持った。


言葉を巡る世界のことを考えるのは楽しい時間だ。
そんな時間をくれた宮城谷氏と野田氏にしばし感謝して。
外国語を学ぶときにはその背景にある文化のことを忘れないようにして行きたい。