white x black = ?


本当は語学の勉強のことを書くblogのはずだったのだけれど1月から仕事が急変してしまい、語学はさっぱりの毎日・・・。(英語の読書だけはつづけているので、今日、某コンペの英語の応募要項を読んでいたらすらすら入ってきて驚いた。役にたたないこと、というのは無いのかもしれない。)


さて、コスト問題で窮地にたたされていたプロジェクト。この1ヶ月半、施主側の設計大変更の要求を泣く泣く受け入れ、いくつ目の案なのだか分からないほど模型の山ができた。いつの日かこのプロジェクトが完成したらヘルツオークばりのSchau Lager(=show strage)展をやってみせよう。


矢継ぎ早に案をださなくてはならず、だんだん自分たちのハードルが下がってくる。建築家として、本当にこれでいいと空間に責任もてるか?と実働チーム3人で毎晩激論してきた。本当にこれで、革新的な都市計画といえるか?


去年のコンペの最終審査から今まで、もう10回は修羅場のプレゼンがあった。(喋るのはボスだから私ではないけど。)プレゼンの場では、何があっても建築家は自分の発表する案について、ポジティブに喋らなくてはならない。それがたとえ施主に要求された変更であっても、それを自分の案として発表する以上、ポジティブでなくてはならない。それは戦略であって、自分の内面の葛藤とは関係ないのだ。チーム内でも意見は分かれる。ダメなものはダメだ、と言わなくては、施主のいいなりでは?と。1対1の個人の施主ならそれもいい。でも、今回施主はハウジング会社6社もあるのであって、しかも土地を提供してくれる行政も納得させなくてはならない。


会議は政治と戦略と腹のうちの探り合い。
クールに自分の役割を演じなくてはならない。熱くなったらダメなのだ。その辺、このプロジェクトに参加している会社のトップたちは嫌みなほどすばらしい。


しかし、この裏でこのプロジェクトをささえてきたのは、この街の良心ともいえる人たちだ。街のことを真剣に考えている善意の人たちがこのプロジェクトを構想し、街に貢献するプロジェクトを未来に残そうではないかという熱い思いに支えられているのだ。だから、せっかくコンペで選んでくれた彼らの期待に沿いたいと、心から思う。


確かに、行政主導でやるプロジェクトとしては、コストがかかりすぎるプロジェクトはそれだけで社会的意味が失われるという側面はある。贅沢なソーシャルハウジングなんて、リダンダント以外の何ものでもない。エネルギー計画、コスト計画、すべてがそろって、それでいて空間的なクオリティーを保証した計画。そんな絵に描いた餅みたいな計画。


1月から私たちが発表した変更案は5案目らしいけれど、結局昨日はまだ折り合いが着かず、結局市議会にかけるのは延期ということになってしまった。3月の市議会までに最終決着をつける、ということで一丸となってこの3ヶ月、施主もこちらもしつこく中間ミーティングを開いてやってきたのに、失意の結果となってしまった。


これをポジティブに言うなら、まだプロジェクトは生きている。
NO、と言える人などここにもいないのだ。でもYESもいえない。
オーガナイザーの人たちが会議中、怒声が口から出そうになるのを押さえている所を何度も見た。怒った方が負けだ。
プロジェクトのコスト計算を第3者に依頼した。
施主側の要求だけではこれ以上判断ができないところに来た。


建物を設計するという職業の重みがずしりとくる。こんなにたくさんの人間を説得しなくてはならず、そして、そこにこれから何十年も住むであろう何千もの人の人生の一部に関わってしまうのだ。そこで生まれる人もいるだろう。そこでなくなる人もいるだろう。少なくとも毎日の業務の中で自分の引く線には誠実であろう、と思う。


こんな時は、グールドの出番。
音の狂った私の身体が少しずつ調律されていく。今日は何故かバッハではなく。

ピアノによる「運命,田園」

ピアノによる「運命,田園」