秋のわすれもの

jiu2007-11-08



最近、バスを待つつかの間の間に本を読むのがおっくうな程寒くなってきた。
事務所の庭の木々は冬に向かって、潔く葉を落として行く。
おかげで庭は少々気の早いクリスマスの包みでも広げたような華やかさ。


手がかじかんで外で本が読めなくなる前に、カラマ兄弟を読み終わりたかったけれど
どうもいろいろ途中浮気していたのでやっと上巻最後の1章まできた。
この本は1場面1場面、いや、1文1文にずっしりと重たいテーマが練り込まれ、
1ページ終わるたびに、人生の問題がつきつけられてくる、というものすごい物語。
まさに世界で一番の大文字の小説。
なんで、こんな深刻そのものの小説が現代の日本で受けているのでしょう?
新訳はそんなにカルーく読める訳なのだろうか。(ここにあるのは旧訳なので。)
私は単なる意地で読んでいる。


そしてドスト先生の問いかけはやっかいなことに
いちいち日々起こる些細な私の問題に介入してくる。
この間の週末に「それでもボクはやってない」という映画を見て、
この3日間ずっとこのストーリーの結末のこと(いや主人公の行く末なのか?)
をずっと考えている。よく読んでいる某有名ブログでも最近冤罪事件のことが
問題になっているので私的にタイムリーなのだ。


裁判のテーマというのは最近流行なのだろうか。夏に実家でみた「ゆれる」も
裁判をテーマにした映画だった。人が罪をおかすこと、それを裁くこと。


「それでも」の方でなるほど、と思ったのは裁判官も公務員である以上、
警察/検察という国家権力が告訴した案件を無罪にしにくい、という
あまりにも分かりやすいことをズバリ言っていたことだ。
刑事事件の裁判というのはそもそものデフォルトで
公平な裁きの場ではない、わけですね。ああ、なんていうことでしょう。

またかりに自分で罪を犯したとする、(中略)、心ならず犯したただ1つの罪にもせよ、
死ぬまでもそのことを悔い悲しむような場合には、自分よりほかの人のことを思うて
喜ぶがよい、ほかの正しい人のことを思うて喜ぶがよい、よし自分は罪を犯したにもせよ、
その代わり、ほかに正直な罪を犯さぬ人がある、とこう思って喜ぶがよい。


などと書かれてしまうとさて、神を信じている訳ではない日本人は困ってしまう。
この先には、他人の罪をとがめるな、その罪は自分のものと思って苦しめ、と続く。
この伝でいくと、冤罪事件さえ、神がお与えになった罪と思って、克服せよ、と
なってしまう・・・。
それにしても、こういう道徳のある国の裁判とただ法律というものの前に見せかけの公平を説く
日本の裁判はとてつもなく違うバックグラウンドの上に成り立っているのだなあ、と
直接は関係ない遠い事象が朝のバスに揺られる私の中で絡まり合って混乱する。


下巻はいよいよ事件が起こって大変なことになるんだろうなあ。


いろいろなごたごたをすぐに裁判に持ち込むこの国の人たちの国民性と
神様の道徳はどうなっているのだろう・・・。社会はちっともよくなっていかない
見たいです。