今さら、だけど、アウステルリッツ。


さて、週末は往復6時間も電車に乗っているので、私の1週間の読書の成果は実はここにかかっている。読んでいる本がつまらないと、あっという間に睡眠タイムとなって消える。今週はゼーバルトアウステルリッツ、遂に読了。作者がドイツ人だからって、ここ、ドイツではそんなに誰でもおいそれと読んでいるような本ではありませぬ。


作者が段落分けのない途切れの無い文章で、永遠につづく人間の営みを仔細に積み重ね、時間軸とはあたかも単線でできているかのように、言葉を執拗につなぎ合わせて行くとき、それは単純な構成である故、逆に瓶の底に溜まる澱のように心に重くのしかかってくる。ああ、もうそれ以上書かないでくれ...と何度も息がつまりそうになる。ホロコーストがいかに起こったか、ということが,形を表した権力の象徴として建築物を建てる人間の営みに象徴させて書かれて行く。これは日々建築を作ることを生業としている私の胸には少々ぐっさり来すぎる。


過去を失わされた(過去を知らずに育った)建築史家の主人公(←この本を読んだきっかけは唯一この点に興味を惹かれたからだった。)を通して、人間にとって過去とか記憶とかそいういうものがもつものの意味を探ろうとする。過去をとどめるものとして人が作り出した方法としての写真。図書館。名前。標本。言葉。都市。消えないもの、消えるもの、生きるもの、死んでいるもの etc, etc...


何度も、時間とは何か?ということが問われる。

じっさい、とアウステルリッツは語った。鉄道の時刻表が共通の時間にのっとるようになるまでには、リールやリエージュの時計はヘントやアントワープの時計とは異なる時を刻んでいました。そして十九世紀の半ばに統一時間が導入されてからというもの、時間は疑いもなく世界を仕切っているのです。私たちは時間が定める進行表にしたがってはじめて、人と人とを隔てる広大な空間を移動できるようになった。

・・・ニュートンがもし、時間とはテムズの流れのようなものだとほんとうに考えていたなら、時間の源はどこにあり、最後にはどの海に注ぐのでしょうか。周知のとおりどんな河の両側にも岸辺がある。それなら時間の岸辺とはなんでしょう。流体でかなり重くて透明である、そういう水の性質に対応する特質が時間にはあるのでしょうか。時間の波に攫われるものと、時間がけっして触れないものとの違いは?


怖い小説だ。こんな壮大なテーマが人類史上最悪の歴史に重ねて書かれようとする。ああ、できることなら目を逸らして生きたい。この街のそこかしこにまだ歴史が降り積もっている訳だから、なおさら。たとえば。私の同居人なんて半世紀経って収容所で亡くなったおじいさん(ユダヤ人)があの時に取り上げられた土地が21世紀の今になって返って来た。だけれど、彼も家族ももうその土地とは何のご縁もないし、売ろうにも東ドイツの土地なんて二束三文どころか、会ったことも無い隣家の人と境界線のことでもめごとが起こる・・・、という愚痴を夕食を食べながらしたりしている訳である。そんなことが日常茶飯事にある。それが笑い話にならない人もいる訳である。まだ全然終わっていない。


ドミニク・ペローはこの小説を読んだのだろうか。これほど悲惨なパリの新図書館批判は見たことがない。こんなにすごい本を丸ごと一冊かけて、最後にざっくりやられたのはこの建物。ここまでやられれば逆に建築家冥利につきる、なのか(涙


ペローの図書館のくだりで、なんとなく思い出していたのは年末に聞いたグローバリズムの専門家、サスキア・サッセンが講演会で言っていたこと。
今の時代は、建物がある場所と実際のアクティビティが起こっている場所は全く違う。例えばユーロ銀行がフランクフルトにそびえ立っているのだけれど実際のお金のフローはどこか全く違う所、例えばアラブの石油だったりイラクの戦争だったりそういう所がユーロの価値を決めているのかもしれないし、電子のデータでどんどん物事が動いて行く。目に見えるもの(=例えば建物)と目に見えないもの(=実際に起こっていること)がずれてきていて、その構造を見極めて行くことが課題である、と。目に見える物が物事それ自体であった時代ではなくなった、というような話。(←こんなこと、と思うけれど彼女のパフォーマンスには重みがあった。)ああ、あの図書館もそうかなあ、と。あの透明な現代のバベルの塔。建っているけれど実体はそこにはない・・・


読むときは心の覚悟をして。

アウステルリッツ

アウステルリッツ