the notebook (悪童日記)

jiu2007-02-26



先週から、Agota Kristofのthe notebookを読み始めた。
邦題は「悪童日記」。
この人の書くテクストは一文一文がカミソリのようにするどく、短く、
すきがいっさい無い。生でやわな私をぐさぐさと突き刺してくる。


先月、この人の自伝「文盲」というのをはじめて読んで、この文体にやられた。
こんなに鋭くよけいな感情描写なく厳しく客観的な文章を書く女性が
いることに、驚いた。野上弥生子だってこんなには厳しくないかもしれない。


ところで今日書こうと思ったのは本の内容ではなく、英語の言葉の概念について。
最近やりはじめた「英語上級者のためのCLトレーニング」という本がある。
この作者の英語至上主義なものいいはかなり頭にきて、本を捨てたくなるくらいだが、
英語的な発想の仕方の問題集というのはあまり無いので、その点では面白い。


というのも、ドイツにきてから、高校の英語の授業では習ったこともないような
ことを注意されてとまどうことがしばしばある。


翻訳の仕事を手伝っていたとき、「やわらかい空間」という日本語をどうやって
ドイツ語に訳すか、ということが問題になった。 やわらかい、という概念と
空間、という概念が結びつかない、というのだ。
英語でいうならsoft spaceだ。
それを書いた日本人はやわらかいイメージがする空間、
堅くて冷たいコンクリートの壁に色を塗ったことで空間のイメージがやわらかくなる,
というような意味で使ったのだが、翻訳していたドイツ人は??? やわらかい空間って
聞いたら壁がぐにゃぐにゃして立てないような、変な空間を思い浮かべる、そう。
もちろん文章全体のコンテクストによっては日本語でもそういう意味になるだろうけれど、
それは読んでいれば自動的に判断できる。(いいかえれば日本語は自立的には言葉の意味を
定義できない言語、ということでもある。)


「やわらかい soft」と「空間 space」という違う概念のものを結びつけることは
文法的に間違っている、と言われた。
小学生が算数で足し算を間違うような間違いなのだそうだ。
形容詞は名詞を修飾できるはずにもかかわらず。


さて、このCLトレーニングではいろいろな問いに対して英語的な答え方とはどんなものか?を
追求していく。きっとこの作者も日本語的発想で話して通じないギャップにいろいろ遭遇したのだろう。
私も困っているのだ。ジョークが通じないときの哀しさは本当にがっくりくるのだ。


それで、冒頭のthe notebookに戻るのだが、主人公の双子が学校に行かないで
自分たちで言葉の勉強をしているシーンがあってはっとしたのだ。やはり、ヨーロッパの
子供たちはこうやって結びつかない概念のことを習うのだ。


... We would write, "We eat a lot of walnuts," and not " We love walnuts,"
because the word "love" is not a reliable word, it lacks precision and
objectivity."To love walnuts" and "to love Mother" don't mean the same thing.
The first expression designates a plesant taste in the mouth, the second a feeling.


Words that define feelings are very vague. It is better to avoid using them and
stick to the description of objects, human beings, and oneself, that is to say,
to the faithful description of facts. ...


ここではもちろん、loveという感情への揶揄、批判も入っている部分なのだが、
この章はずっと双子が言葉の練習をしている場面がつづく。英語を含めてヨーロッパの言語は
どんな言葉とどんな言葉が結びつくのか、言葉の定義がずっと明解で厳しいのだ。
日本語は何でもつなげてそこに表現の上手さを競うところがあるが、こちらはそういう
ことはないらしい。



でもこの日本語のゆらめく概念の中で他律的に意味が決まるという思考方法は
そう簡単に拭いされるものではない。アゴタ・クリストフハンガリー人で、戦争中
次々と国が違う国に占領され、その度に使用する言語を敵から押し付けられるという
特殊な子供時代を過ごした。そして、亡命先のスイスでは
フランス語を話すことを余儀なくされる。そして彼女は書いた。


「この言語(フランス語)が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつある、・・・」


私もときどきこういう感覚に襲われる。私の日本語がこわれていく。しかし、一方で
執拗に私の変化を拒む日本語思考の枷は強烈だ。それでもじわじわと殺されつつあるのか?