ココロは遺伝するのか?


「心はどのように遺伝するか」読了。明日から、イースター(復活祭)休暇なので、滑り込みセーフ。
行動遺伝学などという分野があることも知らなかったし、双子の研究というのがどういう分野に役立っているのかも全然しらなかったけれど、この本はそういう分野のそういう研究の話。一卵性の双子というのは遺伝子的に全く同じ遺伝子のいわばクローン人間、なのだそうだ。


大学の時のサークルに一卵性の双子の片割れがいて、彼女のもう一人の姉妹の子が合宿に一緒に来た時、絶句したのを覚えている。朝、一人で歯磨きをしていた彼女が私の知っている方なのか、知らない方なのか、見分けがつかなかったから。いくら何でも友達かどうか見分けがつかないなんて!自分にショックだった。(実は今だにあのときどっちに「おはよう!」をいったのか答えをしらない。)彼女たちは、小学校の頃名札を入れ替えて学校に行ってもだれも気がつかなかった、と言っていた。だからときどきその入れ替えっこをして楽しんだりしていたそうだ。とりかへばや物語をマジでやっていたということだ。そして成人になっても彼女達はわざと同じ髪型同じ服そうをしたりして、個性の差がでないように努力している!と言っていた。大学こそは違う所に行っていたけれど。本当に変わった奴らだった。


そうだ。双子の話じゃなくて遺伝だった。彼女達の見分けがつかない程の類似性は努力のおかげではなくて、遺伝子的に自明のことだったのだ。生まれてから30年以上もお互い別々に育ち、生き別れていた一卵性双生児が偶然出会うことになった、という事例が紹介されていて、その人たちは性格成績職業服装の好みから異性の好み、果ては子供の名前や犬の名前まで一致していた!という驚くべき事実があったらしい。しかも1組だけでなく何組も事例が知られているのだそうだ。育った環境より,遺伝子の力は大きいぞ、と。


ある事象(たとえば知能指数)に遺伝的要素が関係しているだろうとは予測できても実際それを科学的に説明するのはムズカシイ。環境というのが必ずかかわってくるから。たまたまいい学校にいった、とかいい先生についた、とかいい参考書にであった、とか親が教育熱心だったとかお金持ちだったとかあらゆる条件が同じで,遺伝子だけ違うとか遺伝子的にも同じ、という状況を作り出すのが難しいわけだから。それで筆者達行動遺伝学者は、奇跡的に育つ環境もほぼ同じで、遺伝子的にも同じ人間である一卵性の双子達と、環境は同じで遺伝子は半分だけ同じ/違う人間である二卵性の双子達を対象にして様々な実験をし、特定の要素(例えば知能指数)の遺伝的な要因と環境(後天)的な要因の影響度を研究していく。


本書では、さまざまなココロに関する要素にまつわる遺伝の影響が明らかになっていく。でも。
私たちが本当に知りたいのは、遺伝的影響がある、ということより、
いかに遺伝的宿命から逃れることができるのか、ということだ。
人間は親を選んで生まれてこられない訳だから。
その問いにはまだこの学問分野は答えてくれない。遺伝といっても、一義的に発現型が決まっている訳ではなく組み合わさり方や時間による要素、環境との組み合わせによる発現型の変化等々、遺伝という仕組みが生み出す多様性こそが人間社会の多様性を支えているのだ、というのが筆者の締めくくりなのだけれど、結局の所、遺伝的要素の生かし方は分かっても、人間それだけれは納得できない訳なのです。どちらかというと遺伝子に書いてなくてもやればできる、ってことの方を科学的に証明してほしいもんなあ。(筆者も分かってるからこんなに苦しい結論だったのだろうけれど・・・。)


学問ってムズカシイ。人が知りたいことと違う結論が導かれてしまう研究分野にならないことを勝手に祈るばかり。

心はどのように遺伝するか―双生児が語る新しい遺伝観 (ブルーバックス)

心はどのように遺伝するか―双生児が語る新しい遺伝観 (ブルーバックス)

 筏に乗りて。

楽毅」読了。やっぱり一週間に文庫でも4冊一気読みはしんどい(笑
歴史モノを読んでいるとどうもおじさんになった気分になる。
こういうのは定年後の楽しみにとっておきたいよなあ、と
思うのだけれど魔力的面白さを断ち切るのはムズカシイ。
高校の時のまだドイツが2つの国だった頃の歴史年表と世界地図を
引っ張りだして来てみたりしている自分がときどき・・・。
(かろうじて,ローマ人シリーズには手をださないようにしている。
やめられないのは分かり切っているから(笑))


外国で暮らしている日本人なら多かれ少なかれ感じていているだろう、
自分の生き方に対する疑問。
人としてよく生きればそれでよい、のか
日本人としてやはり日本でよく生きたい、のか。


先週、勇気を振り絞って日本に帰ってがんばっていた友人がやっぱり
日本を捨てますといってまた外国に行くことを高らかに宣言した。
ああいう気概をもった人が本当に日本の将来を背負っていくべきなのに。
もう彼女は2度と自分からは帰らないかもしれない。
今も昔も、本当に有能な人材を正しく見抜ける権力者は奇跡なのだなあ、
と物語の吸い込まれるような華々しい展開とは別に
しばし暗い気分になりながらこの小説を読んでいた。
今の彼女が自然とこの小説の主人公の哀しさに重なる。
自分を本当に買ってくれるところが自分の国にないとしたら?嗚呼。


道おこなわれず。筏(いかだ)に乗りて海に浮かばん。「孔子
(国家に正しい道がない時、流亡の旅もやむをえない。)

 蝶の舞う季節


には、まだ早いのだけれど、昨日からクラシックのCDにしては珍しく美しい装丁のこのアルバムをずっと聴いていマス。ほとんどジャケ買いだったのにものすごくよかった。めくるめく浮遊感。蝶が闇の世界からはらりとすり抜けて来て、白昼夢をみせてくれるような。ピアノのオトが限界まで美しい。こういうオトが聴きたいからピアノを聴いているのだ、と思う。カルネヴァール(謝肉祭)というのは、クリスマスが終わってイースター(復活祭)までの断食の季節が始まる前、冬から春になる前のまだ暗さの残る季節に、仮装した人々が街に躍り出て一昼夜踊り続ける祭り。春の到来を祝う祭りで、ヨーロッパ中である。人の狂気と歓喜が一体化する。そして謝肉祭の仮装といえばやはり道化。


カルネヴァールと蝶と道化。これ以上ないような舞台装置と役者がそろった。
シューマンの旋律の軽さが、狂気と紙一重の雅やかな白い世界につれていってくれる。
そうか、桜だ。春の狂気といえば桜の森の満開の・・・

シューマン:チョウチョウ 他 [Import] (PAPILLONS CARNAVAL)

シューマン:チョウチョウ 他 [Import] (PAPILLONS CARNAVAL)


ドイツにくるまでカルネヴァールといって思い出すのは実は軽さとは遠いイメージだった。吉野朔実の「La Maschela」というこれまたヴェネチアの謝肉祭を舞台に繰り広げられるミステリーがある。ジュースキントの「香水」を思い出すような怪しくて、狂おしくにおいたつような美しい作品。なんと、今気がついたら絶版になっている・・・。うわー。なんということ。(表紙の絵をさがしていたのだけれど見つからない・・・。)

La maschera (ぶーけコミックス)
ある人殺しの物語 香水 (文春文庫) (←この人は世界中の人があっと驚くような本を一冊だけ書いてあとは隠れて暮らす、と言っていて本当にそのようになった奇跡の変人小説家。)

 数字とのつきあい


前に数字の手触りのことを書いたけれど、今日もやっぱりこれに助けられる。
1年分の電話代を同居人と割るのだけれど、彼の作った計算書の合計がなーんとなく高い。ちょっとの差だけど、1ヶ月約○○ユーロX12でそんな合計にはならないでしょ、とすぐにピンと来る。こういうのはいつも数字とつきあって、頭でとりあえず概算する癖を忘れてはいけない。エクセルがこういってるんだから、とすぐに信じてはいけないのだ。怖い怖い。数字も生ものなのだ。

2年くらい前に買ったイクイクという2桁のかけ算を九九みたいに語呂合わせで覚えるという本があってトイレに置いてあるのだけれど、やっぱり数字は計算しないとピンとこない気がする。感触が重要なのだ。


二桁のかけ算 一九一九(イクイク) (黒松ブックス)

二桁のかけ算 一九一九(イクイク) (黒松ブックス)

数字といえば、最近近くのスーパーマーケットで、特売品を買ったときには気をつけないといけない。カゴのところでは”特価!”と書いてあってもレジでは定価のままになっている時が。あんまりよくあるので、これはもしかしたら作戦なのかもしれないと思うようになってきた。多分10人買って気がつく人が2、3人ならそのままの方が店に取って得だもんなー。商売だなー。そんな時だってやっぱり頼りになるのは暗算なのだ。