言語と建築

jiu2008-04-12


佐藤信夫さんの「レトリックの意味論」をついに読了。長かったー(汗
この間、いつだか書いた広大な大地の片隅に建つプロジェクトのプレゼンの準備でここではめずらしく連日12時近くまで労働・・・。ついでに州の公認ケンチクカ登録の書類の準備も平行して進めていて,家に帰っても寝られないし、疲れる3週間だったなあ。それもついに昨日最後の書類をそろえて、郵便ポストにほい!あとは、果報は寝て待て、待てば海路の日和かな。さて、佐藤信夫さんの著作を読むのは3冊目。学生の頃から少しずつ読んでいる。昔は本が見つからなくて古本屋を探したりしていたけれど、今は某密林社のマーケットプレース等ですぐ見つかるからすばらしい時代。


建物の設計と言語学なんて一見関係なさそうに見える。建物のことを考えるとき、建物を形作る要素たち同士の関係のことを考えている。例えばあるファサードの中で、どのように窓(開口部)を配置するか。規則的なのか不規則的なのかはたまた全面ガラス張りなのか。規則的ならシンメトリーか否か、1つ1つの大きさはどうするか、ファサードの形や大きさと窓の開け方との関係は自由自在だ。もちろんファサードの中には窓だけある訳ではなく、エントランスがあるかもしれないし、階段があるかもしれない。階ごとに内部での用途が違えば、覆う素材も様々に変化するし、3次元的に折れ曲がったりもする。内側からの要請で空けたくなくても窓が必要かもしれないし、逆に欲しいところに窓を作れないかもしれない。その納まりだっていろいろある。窓枠だっていろいろある。それでも最後には、錯綜する設計の条件と自分の表現がなんとか落ち着くところを考えなくてはならない。


絡まりあう要素達の関係を考えるとき、言語学が示してくれる言語のシステムの考え方からヒントを得られないものだろうか。単語と単語がつらなってある文を作る。段落をつくる。物語をつくる。その連なり方には規則(文法)がある(はず)である、というのが言語学統語論。もちろん建築の要素と要素の連なり方には言語ほどはっきり制度化された文法というようなものはないけれど、でもやはり、そこにはゆるやかな制度はあるし、それをいかに破るかを考えるのがケンチクカ達のやろうとしていることでもある。新しく見える建築というのは、どこか既成の制度を逸脱しているから新しく見えるのである。それは別にデザインだけのことでなく,新しい技術かもしれないし,新しい場所の使い方かもしれない。だけれどそういうものの背後にある、ゆるやかな基本的制度/構成のことを考える時、言語学はある見方を示してくれると思う。それはもちろん音楽だっていいし、数学だって生物学だっていい。どんなところにも様々な要素の関係がある。そこには建築の制度の中にはないヒントがあると思う。


さて、佐藤さんは言葉と言葉の連なりが生み出す言葉の彩(レトリック/修辞)についての思索を続けていた人なのだけれど、この本はその中の言葉と意味についての話。そもそも、ある語とその意味というのはどちらが先にあるのか。ある現実世界の事象があって、それに名札を張るように語の名前がついたのか、(桜の花にさくら、とつけた。)それともある世界を網羅する言語のシステムのようなものがさきにあって、それが現実世界を切り分けるのか?世界の哲学者、言語学者達にはどちらの立場の人もいる。でもこのレトリックの思索者佐藤さんは、どちらの見方にせよ、語と意味とは彼らが前提とするような1対1対応するような関係ではなく、弾性をもったある境界のはっきりしないものなのではないか、という。(ここではある語が複数意味をもつとかそういうことを言っているわけではなく、もっと根本的な現実世界と言語のシステムとの対応関係のこと。)さらにその弾性をもつ言葉たちが統合されていく仕方についてもまた弾性がある、という予測を示して本書は締めくくられる。


今日の昼間、ロスコの回顧展を見に行った。彼は世界を色で切り分けようとしながら、実は切り分けられない振動する境界のことを描いていたのかもしれない。ゆれる色と色の間。その色の内部でも浅くなったり深くなったり空間がゆれる。そんなゆれる色と色がキャンバスの上に配されたときに、人はそこに描かれた色たちを越えた新しい世界を感じるのだ。なんとなく佐藤さんが言おうといていたことと重なった気がした。


本書は「レトリック感覚」「レトリック認識」という2冊の本の続編なので、まずはこちらからドーゾ。
佐藤さんの著書は本当に美しい日本語入門だと思う。抽象的な話をするときも決して現実の世界から離れないので、例の言語学や哲学の抽象的な難解用語達に踊らされることなく、静かに言語学者達の思索の世界へ誘ってくれます。とはいえこの「意味論」はいきなり相当内容が抽象的な話なので、彼の明快な日本語をもってしても読むのに体力が必要デシタ・・・。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

pinguin x book ?


Penguin by Design: A Cover Story 1935-2005

Penguin by Design: A Cover Story 1935-2005


つまるところ、ただ、ペンギンが好きなのです。ハイ。
全ページにちりばめられ、飛び交うペンギンマークたちを見ているだけでうっとり。


先週、新書のデザイン(*1/*2)についてふらふらとネットを徘徊しているときに見つけたこの本が、週末、amazon.co.ukから届いた。


ココロから出会ってよかったなあ、と思える本。
普段はデザイン/ケンチク本をできるだけ買わないようにしているのだけれど、これは買って正解。
イギリスのペーパーバックの草分けであるPinguinbooksの歴史とそのデザインの本。
その歴史がそのままイギリスのグラフィックデザイン史カタログにもなっていて見飽きない。
これを見ると、文庫本/新書のデザインは時代に合わせて変わって行ってもいいのだな、と少し認識をあらたに。
それこそが、ペーバーバックの使命なのかもしれない。
ただ、いつの時代にどれだけデザインが変わろうとも、ペンギン君がちょこっと鎮座している。
デザインのぶれなど圧倒してしまう、小さくて強力な奴ら。
某所のリンゴみたいなモノ。それだけは変わらない核があるということ。


本のことといえばおなじみ、ココにも↓
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0237.html


ついでなので、ペンギンといえば私の中のこの一冊↓

ペンギンのペンギン (中公文庫―てのひら絵本)

ペンギンのペンギン (中公文庫―てのひら絵本)

人にあげたくなる本その1。いつの間にか文庫になって復活してた。
(私が持っているのは単行本で、まっしろい表紙だったのだ。
文庫が実際どんな装丁だかわからないけれど、この表紙はちょっとイマイチかも?)
哲学を勉強したコンピュータプログラマが書いたった1冊の絵本。谷川さんの訳がまた絶妙な不思議さをかもしだす。
ペンギンx哲学x本のある一つのHappyな出会い。実家に帰って、久しぶりに見たくなってきたな・・・。

 Bignessの最果てへ


LINKED HYBRID by Stiven Holl

今読んでいる本はなかなか時間がかかっているので、日々目につくものなどを。
世界はどこへ行くのか? これは本当に現実なのか?


〈ビッグネス〉は破壊する。だがそれはまた、新たなはじまりでもある。それは、壊したものを組み立てなおすことができる。


〈ビッグネス〉において、建築は最も建築的になるとともに最も建築的でなくなる。物体の途方もない大きさという理由から、それは最も建築的である。自律性を失っているということによって、それは最も建築的でない・・・


by S.M.L.XL Rem Koolhaas 1994

トキを刻む・・・

Download: DROPCLOCK (win/mac) 


yugo nakamura氏の新作スクリーンセーバー
お気に入りの音楽をながして、ぼーっと眺めながら別世界へトリップ。
目がはなせなくなってしまって、スクリーンセーバーの意味なし・・・。
やっぱりこの人はスゴイ。see→http://www.yugop.com/


といってもこれは結構重いしfreeじゃない(お試し版だと最初にregisterのrequestが出る)ので、
dailyuseには昨日まで使っていたFLIQLOかなぁ。軽くてシンプル。

サンタの家

ドイツの子供なら誰でも知っている一筆描き遊び。
同じ点は何度通ってもいいけれど、同じ線は1回しか通ってはいけませヌ。


1.Das
2.ist
3.das
4.Haus
5.vom
6.Ni-
7.ko-
8.laus!


1筆づつ、ダス→イスト→ダス→ハウス→フォン→ニ→コ→ラウス!といいながら描きマス。
意味はThis is the house of Santa-Claus! サンタの家のできあがり。


これが、なんと44通りも解があるらしいデス。
Wikipediaにある動画がちょっと美しかったので。
このシンプルさが建築家ゴコロをくすぐるらしく、このマークをデザインして名刺に入れたりしている人をよく見かけたり。

 祝/メモ

  • ミニ昇給。いいかげん、本とCDだけにお金を使うのをやめて、春だし、服を買って髪を切ろう。と思った、3月の給与明細。

とはいえ、今日日本から届いた荷物に入っていたピアノ特集(3月号)のEsquireを見てたらまたCD欲が・・・。

  • 昨日からのリンクをぼちぼちたどってみると現代新書は賛否両論いろいろあるんだなあ、と意外。

でも、あのCUBEキャンディーみたいな新書は個人的にはどうもいいと思えないのは、すでにセンスが古くなっているのか?
LESS IS MOREであればミニマルデザインだっていいけれど、どう見てもあの帯がなくなったら手抜きなだけに見える。
余白が美しい、とはお世辞にもいいがたい。
本についている帯は傷つきやすいから大体すぐはずしてしまうし、そうすると情けない本体がでてくる本にはだいたいガッカリだ。
色のコンセプトにしたって2冊以上なければ見栄えのしないデザインというアイディアは、
新書というところに取り入れられるべきコンセプトじゃないと思う。
1冊でも完成した世界でなくては。

  • 日本の友達に、友人の家の設計の仕事を紹介した。うまくいくといいなあ。人がうまく結びつくのはとてもうれしい。


(追記 2008.03.27)
なんと実は2004年からすでにこのデザインにかわっていたらしい。(by Wikipedia) 最近目につくようになってきたのは、2004年以前に発行されていた在庫分は昔のカバーで、それ以降の新刊が少しずつ新しいデザインになっていただけだったのが、だんだん2004年以降の増刷時に新しいカバーになってしまっているからで、全体として量が増えて来たからかな?(発行されたのが古いからといって安心は禁物ということデス(汗))と、こんなところでごたごた言ってても、1度変わってしまった流れというのは、元にもどったりしないのだろうけれど・・・。


この記事関連のhatenabookmarks↓
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51023951.html

いい記事みつけたのでmemo↓
http://blogs.dion.ne.jp/hontobi/archives/5740957.html

 休みの後に。


5日間、復活祭休暇でしばし世間から隠遁。それにしても、なぜこの時期に雪?気温がマイナス?もう桜だって咲いているのに・・・


突然ですが、講談社新書の装丁の話。これにやっぱりココロをいためている人は沢山いたのだ。某超有名ブログで記事を見つけて今日は朝から1人で満足&怒り爆発。あの美しい杉浦康平デザインの新書はどこへ。新書といえば、つい最近まであの古めかしい岩波か中公新書か、あの怪しくマニアックな雰囲気の講談社新書しかなかった。それかブルーバックス。年末久々に日本でリアル本屋に足を運んだら、急に種類が増えてどれがどれだかわからないという程の新書ブームの中、あの孤高の講談社新書がない!と思ったらつまらないポップなデザインになってしまっているではないですか・・・。装丁者本人の記事を読んでさらにガックリ・・・。


本には手触りと読み触りというのがある。内容だけでその本を買う訳ではなくて、とくにフォーマットの決まっている文庫を選ぶときには、その文庫の持っている丸ごとの感触、佇まいを含めて予感しながら買う楽しみがある訳なのだ。それは1冊完結のハードカバーにはない楽しみなのだ。

  • 新潮文庫のしおり。(←ここ参照。)そして裁ち落としなしの装丁。未完成な感じが、古くさくて懐かしい感じ。(ところで、なぜ岩波新書はしおりがついてないのにがたがた(裁ち落としていない)してるのだろう?)
  • 岩波文庫の白い表紙。(いや昔のバージョンのカバーがなくてハトロン紙で包まれているという感じも好きだけど。)最近は新潮より岩波派になってきた。
  • 講談社学術文庫のあの文字に満ち満ちた感じ。読み終わったときの充実感。(ちくまの学芸文庫より断然好き。)紺の背表紙がまた他を隔絶していて。
  • 岩波と中公新書。本はデザインでなく中身です、という素っ気ない態度こそが新書の進むべき道なのだ。新書は内容がUPtoDATEだからなおさら。
  • 昔の白水社Uブックス。中学1年でなぜかハマって読んだシェークスピア田中一光の装丁で、ジャケ読みの癖はこの時からか。(ライ麦畑だってあのピカソの顔がついている青と白の表紙でなくては・・・。)妙につんとして、でもレトロな味がある文庫。
  • 昔の講談社新書・・・。あのつや消しのクリーム色の表紙の紙は他の本を買うのとは違うドキドキ感があった。本文だってさりげない杉浦風レイアウトで好きだったのになあ。どうしてどうして(泣


本は本であるけれど、でも知識の詰まったオブジェクトでもある。容易くデザインが変わったりしてくれては困るのだ。その中身の重さに耐えうるデザインというのがある。それは時代を越えた歴史がささえている、というときだってある。最近,ちょっと忘れ難い写真をみた。ここの3月18日。これぞ本が生まれる所だ・・・。